8月19日 金曜日、
おはようございます。 静修CLUB へ ようこそ。
きのうアップした写真です。
中央に見える赤錆びた屋根の家(白ポールの向こう)は、
少し前まで藪の中にあって見えていませんでした。
山では、
人が棲んでいた場所でも手入れをしなくなると、
すぐに山に戻ってしまいます。
ここにはもう住まないと決めた人々も、
残した家はまた来た時には快く迎えてくれるだろうと。
現実はそうではなく、
人がいなくなった土地は山に戻り、
人の生活がなくなった家は、あっという間に廃屋になります。
どんな状態になって廃屋化するかといいますと、
屋根に落ち葉が溜まり、
トタン葺きの屋根は赤く錆に包まれます。
敷地では庭の植栽が思うがままに枝葉を延ばし、
雑草が勢力を伸ばしながら地面を覆います。
そして家は、視界から姿を消していきます。
Out of sight, out of mind であります。
それどころか、
竹が近くにあれば、
家屋敷はあっという間に竹やぶの中に飲み込まれます。
この過程で、
家の中では、竹が畳を突き破って室内も竹やぶ状態に。
つる性の植物も入り込んできます。
こうなると、虫や野生の獣たちの住処にもなり、
排泄物が溜まり、肉を食われた死骸の毛皮も。
そうした想像しがたい景色の中に、
人が生活していたころの家具や食器、
時には立派なピアノや住人の写真が額に入って
あります。
写真の家はすでにその分類と状態にあって。
いまなぜ周囲の木や竹を伐りはらったのかなぁー ・・・ 。
自然の棺の中で静かに朽ちるのを待っていた家を
いままた蘇らせようとでもいうのかなぁー ・・・ 。
理由や目的は別にしても、人が山から出るという行動には、
すべてを山に返すという覚悟が必要な気がします。
山に残る住人のためを考えれば、
家を解体し、敷地の植栽を抜根するなど、
人の力で山に戻したうえで他に生活を求めることがいいなー。
静修をはじめとする限界集落では、
いまこうした廃屋や、
持ち主があるから伐ることもできない木の処理が問題です。
もちろん、毎月のように出先から戻って来ては、
家の雨戸をあけて風を通し、
植栽や畑の整理をして帰って行かれる方もあります。
こういう方たちと集落の住人とは、
きっと昔ながらの人間関係も保たれているのでしょう。
人口が減り、
高齢化しての限界集落化はやむないことかもしれませんが、
何百年も続いてきた人間関係が限界化するのは、
何とか避けたいものであります。
なぜ過疎化が進み限界化するのか、
そんなことも茶原の草を刈りながら考えます。
現金主導の社会で、人々に膨らみ続ける金欲。
豊かな自然環境に背を向けて、
より現金を手に入れやすい環境を求めて山を去る。
そうした社会で生活する中で故郷への愛着も薄れ、
世代交代すれば土地も家も忘れ去られてしまう。
経済第一主義を論拠にしたこんなシナリオも
少しは当たっているように思われるのであります。
一方で、〝地方再生〟などという言葉は、
政府や政治家が免罪符にしているだけのような気がして
ならぬのであります。
その証左に、具体策と実行・実績がないのですから。
移住四年目にもなりますと、
現実が見え始め、
何とかならんのかとフラストレーションがたまり、
発言権ができつつある中で、
声が大きくなってきているのです。
残された時間もそう長くはありませんから、
いまのうちに少しでもと思うのは、エゴイスティックでしょうか。
・・・ 静修CLUB