こんばんは。 静修CLUB へ ようこそ 

静修の弔いごとが終わりました。
限界集落と呼ばれることは好みませんが、
その領域にある静修での弔いは、
わたしをして、将来に対する不安を想起させる出来事でした。
それは、〝恐怖心〟といえるほどのものでした。
静修では、日中、誰とも会うことのない日も稀ではありません。
車のエンジン音がすれば、見えなくなるまでその行方を追います。
そんな集落に居て、
住民が寿命を全うされ、一人ずつ姿を消すのを止めることはできません。
そのことを、これまでは想像するだけでしたが、
今回の弔いで、はじめて現実のものとして受け止めました。
人は、人とのつながりのなかでこそ生きていけます。
数多くの被災地で、
コミュニティーが破壊されたことが原因で集落全体が藪と化し、
再び人が戻ることのなくなった現実を見てきました。
それだけに、つながる相手が少なくなること、
そして、いなくなる過程には恐怖心すら覚えます。
限界集落なんて言わせない、
コミュニティーを存続させるそんな方策がないものでしょうか。
わたしの中でコミュニティーとは、
いろんな意味で人が育っていく場所です。
住民相互が思いやり尊重しながら高度な精神文化が育つ場所、
親が子に知識を与える場所、
子どもが親や大人の姿を見て自ら育つ場所、
子供同士が助け合い切磋琢磨し心も身体も育っていく場所、
自然災害から身を守るために知恵を育む場所、
人が生きていくために必要なすべての事柄を学んで育つ場所。
それがコミュニティーだと思うんです。
しかし、現代の文化は高度に発展し、
その社会を構成し支える人を
システマティックに育てることがいやがうえにも求められます。
それに必要なファシリティーが現代の限界集落にはなくなっています。
高度な社会に参加できる人間を育てる機能が
人によって消されてしまったことが原因で限界集落化していく事実も
認識しなければならないと思うのです。
学校がなくなると、若い親たちは社会に対応した子育てができず
集落を出ていきます。
このことにより、生産手段の引き渡しがなされなくなり、
最終的には世代交代できなくなり、集落は限界化します。
集落が消滅するかについては別の問題ですが、
人がいなくなり、そしてコミュニティーがなくなれば、
単にモノとしての集落が残るばかりです。
唐突ですが、
学校は自然になくなるのではなく、人の手によりなくなります。
利発で誰にも心優しかった子どもたちが、
廃校により統合された学校に通うなかで、
いじめに初めて遭遇し、グループという壁の中に入らざるを得ず、
やさしさを失いながら生きる賢さ?を身につけていく、
そんな過程に、人としての美しさや感動がありましょうか。
うーん、今回はかなりシリアスなコンテンツになってしまいました。
じつは今日は、このブログを書き始めて1年目に当たります。
平成25年3月29日にこのブログを立ち上げました。
1年間静修で生活しながら、明るい将来を予感できない日も多く、
この現実に何とかくさびを打てないものかと考え続けてきました。
そんな策になりそうなことを思いつくままにひとつずつ実行してきました。
もちろんまだまだアイデアはありますし、支援者もあります。
それどころか on going のものだらけというのが実態で、
よく言えば、まだ形になっていないものだらけです。わたしの器量不足で。
美しい自然と優しい人たちがいるこの靖修が、
そして何よりも私自身が好きなこの静修が、
このまま限界集落になることを許してはいけないと思っています。
このブログを使って、
様々な皆さんに向けて〝たすけてー〟って叫びますから、
どうぞ、手を差し伸べてやってください。
引き続きよろしくお願いします。
・・・ 静修CLUB